ケラーマンの宮津滞在記「SASSA YO YASSA・さっさ よ やっさ」

ケッラアマン(ケラーマン)の「日本印象記」

今から100年以上前の明治42年(1909)に、宮津を訪れたドイツ人の青年がありました。
旅行家でのちに従軍記者、ベストセラー作家になったベルンハルト・ケッラアマンです(ケラーマンと表記されることもあります)
シベリア鉄道に乗って日本に来た彼は、東京、横浜、京都、宮島、大阪等を訪ね「日本印象記」を記しました。

この旅でどこが一番気に入ったか?・・・それは「丹後の宮津」である、というのです。
宮津の花街での見聞をまとめた作品「SASSA YO YASSA(日本の踊り)」の概略を読み取り、現在も残る街並みを外国人目線で探検してみませんか?・・・という企画がありました。

「宮津SASSA YO YASSAまち歩きの参加者募集」のお知らせ
○日時 9月11日(日)・19日(月)13:30~16:00(13:20集合)
○場所:清輝楼
○内容:外国人の目線から明治の宮津に触れるワーク(座談会、まち歩きなど)
○参加費用:無料(各日・先着20名)

参加するにあたり事前知識として調べてみますと、ベルンハルト・ケラーマンは帰国後、1913(大正二年)に、資本主義に批判的な未来小説『トンネル』を発表しベストセラーとなりました。
このSF小説に強い影響を受けたのが手塚治虫です。

彼の初期の代表作『地帝国の怪人』はまさに『トンネル』にインスパイアーされた作品で、当初はオリジナルに敬意を払い、トンネルの題そのままで発表しようとしたのですが、出版社等に説得され『地帝国の怪人』というタイトルで世に出したという経緯がありました。

『地底国の怪人』は、1947年『新宝島』『火星博士』に続く、1948年に手塚治虫が発表した長編漫画単行本第3作目である。
『手塚治虫漫画全集『地底国の怪人(講談社)』(1982年)全1巻で読むことが出来ます。

20歳の”天才”手塚治虫が描いた”最初期の大河ドラマ”を読む機会があったら存分に堪能していただきたい。

この作品は、発売当時の漫画作品一般には見られなかった「主人公級の登場人物が死亡する」というアンハッピーエンドの要素を取り入れたとして話題になった。
昭和23年という戦後間もない時代において「地底列車で地底を探検する」「高度な知能を持ったウサギが活躍する」「地底国が地上へ侵略を開始する」という奇想天外なドラマを創り上げた手塚の才能に純粋に尊敬と畏怖の念を抱く。
後に続く様々な漫画家達にも多大な影響を与えたし、小松左京や星新一といったSF作家たちにも影響を与えている。
手塚スターシステムの有名な悪役「ハム・エッグ」は、本作品が商業作品でのデビューである。
この作品は「ロストワールド」(1948年)やメトロポリス(1949年)と並んで手塚治虫の最初期の”大河ドラマ”と位置づける事が出来、この後膨大に生み出される手塚大河ドラマの”原点”、”雛形”であるとも言え後に「地球トンネル」(1951年)、「アバンチュール21」(1970年)とタイトルを変え、2度もリメイクされている。

手塚治虫が1977年に発表した「忘れられない本」と題したエッセイの中で、この本から受けた影響について熱心に語っておられます。
「SFがかくも氾濫している現在でも、人にSFベスト作品を挙げるように言われれば、この『トンネル』を十指の中に入れる事にいささかもためらいはないのである」(「忘れられない本」<朝日新聞>1977年5月16日)

筒井康孝氏もこのトンネルを推しております。
「読む気になったのは手塚治虫の「地底国の怪人」がこの「トンネル」から着想を得ているということを聞いたからだ。あの手塚治虫にヒントを与えた程の作品なら面白い筈と確信して読み始めたのだが、確かにこれは面白かった」(「漂流―本から本へ22 壮大・精緻な「土木SF」」<朝日新聞>2009年9月6日)

そんな大好きな、手塚作品にも大いなる影響を与えた『ベルンハルト・ケラーマン』
これはもう参加するしかないではありませんか。

当日は台風が接近中で、天候が悪化して開催が危ぶまれ気をもみました。
定刻、集合場所である清輝楼さんへ・・・

http://www.seikirou.co.jp/

元禄年間(1600年代末)の創業で、建物は2010年に「登録有形文化財」に指定されました。

9月11日(日)は定員20名いっぱいだったそうですが、今日19日(月)は足元が悪くキャンセルの方もあり15名程の参加でした。

宮津で最も歴史のある旅館(創業1600年代末)の、3階の大広間でお話しを聞く事が出来ました。
歴史を感じさせる品々が、そこかしこに展示されており、これだけでも普段、目に出来ない「お宝」に感動!

一通り資料に目を通し理解た後に、フィールドワークに出ます。
ケラーマンが長期滞在したという「荒木別荘」跡・・・
現在は、日立造船の保養所「与謝の荘」になっています。
ちなみに、2016年10月31日(30日宿泊まで)をもって閉館されるそうです。

続いて、宮津の花街として有名な新浜ですが、以前は万年新地にありました。
この万年新地には1983年頃に、大量のブリキのオモチャを発掘した、お宅がありました。
現在は引っ越されていますが、何という偶然でしょうか。

宮津のキャッチフレーズは“二度と行こまい丹後の宮津、縞の財布が空となる、丹後の宮津でピンと出した”という宮津節の一節がありますが、ケラーマンは、まさに大尽遊びをして宮津節のとうり、散財したと伝えられています。

再び、清輝楼さんへ戻り、現役、最長老の芸者さんのお話しと演奏を聞かせて頂きました。
宮津の芸子さんの給金は、一時は京都の花街である祇園よりも高かった時期もあったそうです。
それだけ賑やかなだったのでしょうねぇ。
Bernhard Kellermann (ベルンハルト・ケラーマン)の宮津滞在記からも、当時の花街の華やかな様子が浮かび上がります。

『日本印象記』の宮津の項で「日本に滞在中、この町が一番面白かった。この町の話をするのは、友人の事を話すように嬉しい・・・」
のちに世界的な人気をもったベストセラー作家が長期の日本滞在中、どっぷり浸かったのは、東京でも横浜でも京都でも宮島でも大阪でもなく、宮津、とりわけ新浜であり、その旅行記を残したのは、宮津にとっても貴重な財産です。

帰国後、明治44年(1911)「SASSA YO YASSA」を発表。
昭和2年(1930)日本語訳を出版。

昭和40年~昭和50年代にはドイツ人記者が、ケラーマンの足跡を訪ねて取材に訪れています。
今後、旧仮名遣いで書かれた「SASSA YO YASSA」を現代語訳にした復刻版が発行される予定です。
今回の宮津SASSA YO YASSAまち歩きの参加者には無料配布されるとの事ですので今から楽しみです。

http://blogs.yahoo.co.jp/coast1386/14446686.html

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過去のブログ記事も加筆、訂正、写真追加している場合がありますので宜しければ時々、覗いてみて下さい。

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