「本能寺の変」で幽閉された明智光秀の娘・細川ガラシャが歩いた道は散歩コース

今年のNHK大河「麒麟が来る」は、コロナウィルスの影響で撮影が出来ず6月で撮影済みストックが底をつき暫く新作の放送が出来なくなりそうです。

NHK大河ドラマ麒麟が来る

https://www.nhk.or.jp/kirin/

「本能寺の変」で織田信長を自刃させた“反逆者”のイメージで知られているが、地元の福知山では名君と慕われていますが出生など謎も多いようです。

主人公である明智光秀は、当市・宮津市とも深い関わりを持っています。

天正6年(1578年)8月、織田信長の発案により丹波を平定していた明智光秀の娘で三女・玉(後の細川ガラシャ)と、盟友で丹後を平定していた細川幽斎の息子・細川忠興の婚儀により夫婦となり八幡山城、次いで当市にあった宮津城に移り住む。

天正10年(1582年)本能寺の変により明智光秀は、親類である細川幽斎・細川忠興親子に行動を共にするよう求めますが、形勢が不利と見て拒否される。
明智光秀は、「本能寺の変」で中国攻めから引き返した豊臣秀吉に破れ実際には11日間ですが、「明智の3日天下」と呼ばれるほど短命に終わった。
まさに細川の行動は、光秀の運命を左右したばかりでなく、日本の歴史を方向づけ宮津市は日本史の重要な舞台となったのです。

天正10年(1582年)本能寺の変により玉は「謀叛人の娘」となってしまい、信長への弔意を示すと共に二心の無いことを示す為、忠興は正室・玉(後の細川ガラシャ)を幽閉しました。

この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通である。
それをしなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もあるが、明智家の「茶屋」があった味土野に送られたことから考えて、離婚はしなければならなかったが、忠興には玉への愛情が断ち切れなかったからではないかと指摘されている。
その証拠として、幽閉時代に男子二人を含む何人もの子供を出産しており、玉を明智家の茶屋のある地に住まわせることで形式上は送り返したことになるからである。

この時、玉(後の細川ガラシャ)は、住んでいた宮津城方面より、私の住む宮津市日置へ船で上陸後、幽閉先である味土野へ向かったと言われています。



玉は、この時に同伴した侍女がキリスト教を信仰していた影響で後に細川ガラシャにを名乗る様になったと伝わっています。
この道筋は「ガラシャ古道」と呼ばれ、私の愛犬との散歩コースの一部です。


細川ガラシャと侍女達も、この景色を見ながら歩いたのでしょうか?

細川玉・ガラシャ夫人生誕450周年を記念して平成25年11月、カトリック宮津教会に隣接する大手川ふれあい広場中央に建立されました。
波乱万丈の生涯の中で、自ら信念を貫いた細川玉子(後のガラシャ夫人)が「祈り」をテーマに夫・忠興との居城であった宮津城の方角に向かい祈りをささげる姿が表現されています

写真をクリックすると大きく見れます。
過去のブログ記事も加筆、訂正、写真追加している場合がありますので宜しければ時々、覗いてみて下さい。

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宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ (聖書を読んだサムライたち)

2020年のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公。 キリスト教宣教が活発に行われた時代にあって、 宣教師フロイスによる詳細な記録を元に、光秀や その娘で後に洗礼を受けた細川ガラシャを中心に、キリシタンの時代を描く。

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